世界の終わり2
1998年8月21日
村上春樹氏の小説作品「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の中で、「図書館の女
の子」が、叫ぶように言う。「あなたにはわからないの?ここは世界の終わりで、私たちはもう
何処へも行けないのよ」(原文と違っていたらご容赦いただきたい)と。
もちろん、それはフィクションだが、真理を示唆している。
そう、私たちはもう何処へも行けないのだ。
たとえ世界一周の旅をして、あらゆる体験をしたところで、所詮「ブッダ」の手の平の上を
彷徨っていただけ・・・。
自分はなにかになれるとか、夢を実現させるんだとか・・・・。
人は成長するにつれ、そんなことを思うのには余りにも疲れてゆく。
「お前は諦め主義だ」と大人を非難するのは、若いというよりまだ未熟な少年のすることだ。
「すべては幻想にすぎない。あなたがたは眠りこけている。あなたがたの夢を覚ませて、
正気に戻すのが私の仕事だ」というようなことを、「ブッダ」たちは言う。
そういったメッセージをどう理解するかは、もちろん私たちにかかっている。
1998年8月22日
自分でこういうサイトを開いていながら、こういうことを言うのも変だが、インターネット
というのは、本当に下らないサイトばかりだ。私は、ほんの成り行きみたいなもんで、
このようなことを始めたのだが、実は以前からの持論としては、インターネットは禁止
すべきだと思っている。そのくらい、危険だし、下らない。
もちろん、一部には実に役に立つサイトもないわけでもない。しかし例えば、個人の
サイトの「掲示板」とか「チャット」の類は、子供のお遊びよりずっとたちが悪いことが
ある。そういうことに関しては、もうさんざん報道もされ、いかに対処すべきかの議論も、
マスコミ関係だけ見ても少なからず行われているので、今更、私ごときがどうこう言っても
仕方ないが・・・・。
1998年8月23日
人は時に、思わず黙り込んでしまうことがある。
今日、あるとてもお世話になっている方から一通の「メール」が届いた。
実に久しぶりの便りだった。
そこには、無言の真実があった。
そういう、途方もない「美」に触れたとき、人はただ沈黙するしかない。
1998年8月25日
私は今、とても悲しい。
ここ数日、他のサイトへ出入りして「掲示板」の類にいくつか「発言」をした。
私が「発言」するたびに、不思議とどのサイトでもみんなに「誤解」(私に言わせればだが)され、
私はいわば、「トラブルメーカー」になってしまっているようだ。
私は、病院に入院していた時も家族の間でも、ずっと「トラブルメーカー」だった。
家族からも、ほとんど完全に「無視」されている。
私は、どこで何を「発言」しても、ほとんどいつも孤立している。
人が私のことを「誤解」して、おおげさに言えば「排除」する理由は、実は私には分かっている。
でもその理由は敢えてここでも言明しないことにする。
しかし、ある時ある人は言ってくれた。「あなたの言うことは、完全に筋が通っているから、誰も
「反論」できないのだ」と。
いずれにしても、私はずっと「孤立」したままだ。
基本的に私は、「独り」が好きだ。しかしもちろん私も完璧な人間ではない。
これほど誰もから「排除」あるいは「無視」されるとさすがにつらい。
このサイトに関する、「感想」などのメールも今のところ一通も来ていない。
1998年9月2日
老子も言っているように、真理はどんな言葉をもってしても表現できない。
そして、更に老子の言を借りるなら、言葉で言い表せるものは、真理ではない。
たぶん、これは「本当のこと」だろう、と私は直観する。
J.クリシュナムルティが言っているように、おそらく私たちの「問題」は、思考に
よっては解決できないであろう。なぜなら私たちは、自らの「思考のメカニズム」
の中でしか動けないからだ。「思考」つまり「自我」からの自由、それこそが私たちが
幸福を感じられる唯一の「空間」なのだ。
そのような理由によって、このサイトは「むーさんの空間」と名付けられた。
これもクリシュナムルティの受け売りだが、まず私たちは自由でなければならない。
そして、行き着くところ、そこもまた自由である。
それならば、「自由」とは何か?私には分からない。
ただ、なんとなくわかることは、私たちは自分で自分を縛っているということだ。
それがすなわち、「思考のメカニズム」なのだ。
1998年10月14日
とにもかくにも私に今、言えることは、「私は愛を知らない」ということだ。
1999年1月9日
人間というものは、実に単純明快な「土台」の上で生きている。
それは、メンツとか尊厳とかプライドとか、あるいはまた意地とか言われる
ものである。
人が生きていくには、最小限の尊厳が必要だ。
それを台無しにしようとする者に対しては、猛然と反撃に出る。
たとえば、人は歳をとても気にかける。
もし歳下の者から、プライドを傷つけられると、人は容赦しない。
そして、単に歳だけではなく、それまで自分より「下」だと思っていた人間から、
「生意気」なことを突きつけられると、我慢できない。
そういったことが、生きていく上で最小限、必要だからである。
そしてまた人は、「真実」を突きつける人間も容赦しない。
そんなことは耐えられないことだからである。
何故なら、「真実」は、とてつもない恐怖だから。
そのようにして、例えばイエスは殺された。
私はもちろん「真実」など知らないが、それでもかなりそれに近いことを言明
してきた。それ故、友人の一人もおらず、家族からもほとんど無視されている。
くどいようだが、人はそういったことに耐えられないのである。
1999年1月22日
人は無意識のうちにでも、常に現実から逃避したいという願望を持ち、そして実際に
現実から逃げている。その理由は現実を直視することは、とてつもない
恐怖だからである。
そして、常に自分が勝手に創り上げた幻想の世界で、幸せだとか、面白いとか
あるいは悲劇の主人公になる。それこそがつまり、思考のメカニズムの中で、
身動きが出来なくなっている、私たちの愚かさだ。
人は言う、「いいじゃない。現実逃避だろうと幻想だろうと、楽しければ」。
しかし、私たちは本当に楽しいのだろうか。
誰と何をやっても、どうしようもない孤独感を感じていたり、仕事に虚しさを感じ
「自分はいったいなんのために、こんなことをしているのだろう」とか、
「ぱーっとやろうぜ。ストレス解消だよ」とか。
くどいようだが、静かに自分を見つめる時、私たちは、本当にそんなことで幸福を感じられる
のだろうか。
ましてこのインターネットの中で、ヴァーチャルだのと言って、別の人格を作って
狂ったようにのめり込む私たち。ニックネームだか偽名だか匿名だか知らないが、
そんなもので遊んで楽しい気分になっているつもりの人々。
何もかもが馬鹿げている。
人は、いつになったらそんな子供のお遊びから卒業するのだろうか。
こうしている間にも、人は生きることのほんとうの意味を考えることすらせずに、
「仮想幸福」を味わっていることだろう。