世界の終わり3

    

    1999年6月12日

       暇であること、退屈であることはとても大事なことです。
      ほとんどの人は、そういう時間があると「何かおもしろいこと」
      を探そうとするものです。何故なら、その方が楽だからです。
      それは、自分をごまかすための安直な方法だからです。
      そして実際、楽しくておもしろいことを見つけ、それに没頭し
      夢中になり、「疑似幸福感」を味わい、再びそのことをしたい
      欲望が芽生え、そのために努力します。本当の幸福を
      発見することなど忘れて・・。
      賢人はそういう一連の欺瞞(つまり自我の愚かさ)に気づき、
      そして「私は誰か?」を追究することこそ、真の幸福に通じる
      のではないか?と、感じ始めます。
      「私は誰か?」。
      暇で退屈でつまらない時間はそのためのチャンスだと思います。
      クリシュナムルティは言っています。「思考は私たちの問題を
      解決することができるだろうか?」
      思考すなわち自我は本質的に愚かなメカニズムであり、その
      外へ出ない限り、私たちは真の幸福を感じることはできないだろう、
      というようなことをクリシュナムルティは言明します。
      何故なら、彼はそのことを体験的に知っているからです。
      何かを信じることは、逃避であり自己欺瞞です。
      何も頼りにせず、「事の本質」を見抜いた人こそが、そういった
      一連のことを、まさに知っているのであり、何かを信じることは
      それとは全く関係のないことです。


                     

                       ♯

 

       出典は忘れましたが、以下のような話を読んだことがある。   

       ある朝、若い修行僧が師と一緒に朝食の席についていた。
       その若い修行僧は一晩中考え事をしていて、結局眠れなかった。
       そこで、その朝食の席で、自身の疑問を師にぶつけた。
       「人間は何のために生まれてきて、そしてどこからやって来て
       何処へいくのでしょうか?死後の世界はあるのでしょうか?
       真理とは何なのでしょうか?神は存在するのでしょうか?
       私はいったい何のために修行しているのでしょうか?
       宇宙とはなんなのでしょうか?
       救いはあるのでしょうか?」

       と、師はひとこと、「飯が冷えるぞ」

       
                   ♯

 

         少し以前に、あるかなり有名ないわゆる「掲示板」に僕は、

         「何が男女平等だ!」と題して、要するにそういう内容の文章を

         載せた。

         反響はある意味で予想通り(と言っても絶対数がたったの3通の

         mailだが)。二人の比較的若い女性は、「そのとおり、よくぞ言ってくれた」

         という内容。あとの1通は若い男性の、「好意的なmailは来ないと思いますよ」

         ということだった。

         乱暴な言い方をすれば、改めてマスコミというのは本当に出鱈目な 

           ものだと感じた。